親父、母さん
マリエッタ
『戦を終わらせなければ』
リィバー・・
「生きよう」
・・ フリックさん・・・・ ・・・
砂利を踏み、軋む馬車の幌。
身体に感じる揺れと、視線の先の彼のバンダナの揺れが重なって、私に今を告げた。
目覚めを音としてなにも発していないのに、彼はふいに振り向き、私を見つめて、微笑んだ。
思うより近くにいたことに、彼が馬車を出ていくまで気付かなかった。
「・・・さん、さん、」
名を呼ばれ、薬のせいで重い目蓋を必死に持ち上げる。
トーニャが横になっている隣のベッドを見ると、呼び声の主・・ノイに背を支えられ、半身起き上がろうとしているところだった。
「・・ん?・・・どうした・・?」
寝ぼけ眼で、何かあったか、と問い掛けると、トーニャが眉を顰めてノイにごちた。
「だから後でいいって言ったろ。ぐっすり眠ってるの無理に起こさなくたって」
「お前もさんも、寝っぱなしで時間の感覚がおかしくなっちまう。腹は減らなくても決まった時間に飯を食わないと、胃の腑からおかしくなるって、こないだトウタが教えてくれたんだ。怪我を早く治したきゃしっかり食って、それから寝る。ホラ、・・・いいか、枕入れるぞ」
ノイが、怪我の無い方の足・・・左足の太ももをベッドの端に押しつけて、片足で器用に身体のバランスを保ちつつ、トーニャを介助している。ベッドの横に備え付けの布袋から、支えの枕をひとつ取り出し背中に押し込むと、思わず、という風にトーニャの口から呻きが漏れた。
「痛っつ・・痛いって、」
「傷が変な風に固まっちゃ後でまたリハビリにも困るんだ。飯の時くらいは、縫った痕が裂けない程度には起き上がらないとな」
それもトウタの受け売りだろ、と、トーニャは軽くノイを睨みつつ、腰の辺りを少しさすり、小さくごちた。
トーニャはハイランド領でのあの合戦の時、無防備な背中を肩から腰にかけて斜め下に裂かれていた。
馬上の騎兵からの鋭い一閃にバッと舞った血飛沫が、今も生々しく眼前に蘇る。
「・・だいじょうぶか・・?」
「あ、ハイ!大丈夫ですよ。もう傷くっついてきてるって、すごい早さだって、今朝ホウアン先生も驚いてたくらいですから。さんの倍の速度で治っていきますよ見ててください!」
「・・プッ・・・・減らず口って言うんだぞ、そういうのは・・・」
思わず声を掛けた私に、トーニャが勢い込んでそう答えた。得意げな満面の笑みに思わず苦笑する。
命懸けの喧噪の最中で、傷の具合まで詳しく見るゆとりは無かった。倒れ込んだ勢いから即死かと疑ったが、抱え上げた時に寄せた耳元で、トーニャは小さく吐息を紡いでいた。
馬の嘶きが入り交じった敵と味方の悲鳴の中で、やけにはっきり聞こえた生命の形が、心から愛おしかったのを憶えている。
まだ生きている、と、彼を脇に抱え、必死で剣を振るった。
まるでなにもかもが嘘のようだ。
この平和な微睡みの中で、私は何度も、柔らかいまばたきを繰り返した。
「さあ、ちゃんと食えよ。お前の嫌いな玉ねぎのスライスもたっぷりだぞ」
ノイはそう言って、トーニャの毛布の足元に乗せて用意していた紙包みを開け、拳の大きさほどの白パンのサンドをふたつ取り出した。切り口から、サーモンと玉ねぎのスライスがのぞいている。
思わず顔を顰めたトーニャを無視して、包みと共に持って来ていたナプキンを彼の膝の上に広げ、そこにサンドをサッと置いた。そしてその後、トーニャのベッドの足元に立て掛けていた松葉杖を脇に持ち、私を見て笑顔で目配せをした。
「さんの分は今持って来ますから、それまでにちゃんと目ぇ覚ましといてくださいね」
私が微笑み、頷くと、ノイはそれを了承の意として、患者の分の昼食の包みが置いてある机へと向かい、器用に松葉杖を操り、部屋の中央へとリズムよく歩いていった。
トーニャはその背中を睨んで見送りつつ、白パンの切り口を広げて、もう一度顔を顰めて、勘弁してくれ、とでも言うようにウェーッと舌を出した。
「まったく・・自分だってきゅうりのピクルスは必ず避けてるくせに・・・・あ、」
「さん、トーニャ、起きてるっ?あ、トーニャ、今日お昼白パンサンドなんだ」
ツェンダヌが元気いっぱいに、戸口の方からこちらに駆け寄ってきて、弾けるような笑顔で私達にそう声を掛けた。手に飲み物の筒をふたつ持っている。やや後ろに、大きな包みをふたつ持ったアスタもいた。
「ツェンダヌ。なんだよ、また来たのか」
「来ちゃ悪いかっ」
「アスタ、今日の訓練終わったのか?・・なにお前それ、スッゲーでかい包みだな」
トーニャがアスタの持っている大きな包みに興味を示すと、アスタは包みをふたつともトーニャの足元に置いて、苦笑気味に、包みの中身の説明を始めた。
「ツェンダヌがカレダンさんと、一番大きいスペアリブの取り合いになってさ。そこにたまたまビクトールさんがお昼で乱入して、三つ巴でワーワーやってたら、ハイ・ヨーさんが大きな豚の固まりを新しく焼いてくれたんだ。それのサンド。ちゃんと食べやすい大きさに切ってくれてるから。みんなで食べよう。・・・さん、起きられますか?今オレが支えますから・・あまり力入れないように・・・・」
二人の到来に、自分で起き上がろうとしていた私に気付き、アスタが慌てて私の枕元に寄った。いつものようにそっと背を支えてくれ、新たな枕をひとつ取り出し、私の背に挟み込む。
「ああ、・・ありがとう。・・・ふぅ。・・・・・ホントだ。豚のいい匂いだな・・」
・・・・・・ずっと寝ころんでいるせいか、薬のせいか、いつも起き上がってすぐは、軽く目眩がする。少し目を閉じて、酔いを逃す。
「・・・・なんだかまだぼんやりしてますね。食事出来ますか?食べられるようならと、カレダンさんからドライフルーツいっぱい預かってきたんですけど・・」
アスタがそう言いつつ、さきほどトーニャの足元に置いた大きな包みのうちのひとつをこちらに向けて持ち、中身を取り出した。
出てきたのは、少し淡い水色に照る、アスタの頭ほどもある大きなガラス瓶。その中に、色とりどりの大小様々な大きさの粒が、所狭しとぎっしり詰められていた。
「あっ、アスタ達来てたのか。えっ!うわぁなにそれ?!瓶詰めっ?!うわっオレそれ食べたい赤いでっかいの!」
ノイが私の分の昼食の袋を手に持ち、松葉杖をついて戻ってきたなりで奇声を上げた。私もとても驚いた。こんな大きな瓶・・・・。
「・・・よくこんなの手に入ったな・・」
「戦争が終わって、商いの流通経路のあちこちが一気に活発に動き出したんですよ。乗じてタチの悪いのも増えたから、ビクトールさん達みんな大変みたいですよ。今日久しぶりに城に戻ってきたっていうのに、さっきまたアップルさんに呼び出されてましたから。手が空いたらここにも来ると思いますけど・・・どうします?蓋開けますか?」
アスタの問いに、軽く頷いて返す。その後ろでツェンダヌ達が、蓋が開くのを今か今かと手ぐすね引いて待っている。アスタを輪の中心に、年相応の無邪気な表情がたくさん並んでいて、その様子がとても微笑ましい。
窓から差し込むお昼の陽光が、瓶の底の丸いラインから床に小さなプリズムを作り出していて、私は一瞬それに見とれた。
「 ・・・・・・・・・」
「・・?・・・さん?」
「・・ん?・・・・・うん・・。・・あ、プルーン食べたい。・・・ノイ、その赤い大きいのは、ラデュロスと言って、ハルモニア近辺の山で採れる珍しい果物なんだ。・・干される前の瑞々しい状態のは、私も見た事はないんだけど・・甘くておいしいよ。食べてごらん」
「ラデュロス・・すごい名前ですね・・・。・・・・・っ・・と、・・・・・あっ、コラ!手突っ込むなよツェンダヌ!ノイも!おっ前ら・・」
瓶の広口にしっかりと押し込まれているコルクの厚くて太い蓋を、コルクが割れないように少しずつ軽く浮かせては回し、アスタが時間を掛けてやっと引き抜いたその途端、ツェンダヌとノイがそこに手を突っ込み、ラデュロスめがけてガッと奥にかき混ぜた。アスタに叱られひどく睨まれて、二人ともおずおずと手を引っ込めたけど・・・トーニャも、もし手が届いたならば同じくそうしていただろう。ベッドから首を長くして瓶の中を覗き込んでいる。・・気持ちは分かる。戦争に関係無く普段からでも、こんなに豊富な種類と贅沢な量の瓶詰めは、そう目にすることがないもの。
苦笑を堪え、心でノイ達に同調していると、アスタが、まず私にと、瓶からプルーンをひとつ取り出し、渡してくれた。その後、もう一度瓶の中に手を入れ、桃の実ほども幅のある、赤く平たいその固まりをひとつだけ取り出し、半分に裂いた。
ノイとツェンダヌがそれをひとつずつ渡されて、パッと顔を上げて嬉しそうに笑い、受け取るとすぐに勢いよくガブリとかぶりついた。トーニャが羨ましそうに二人を見ている。
「いただきまーす!・・んっ・・・・!!・ぐ、・・・ぅ、しぶい・・ナニコレ・・・うわぁ・・」
「んぐっ!・・・・・さんのうそつきっ!全然甘くないじゃ・・・」
「・・・ふっ・・くっくっくっ・・・アハハ・・痛た・・・アッハッハハ・・」
「 ・・・さん・・・・・・」
二人の様子を見て愉快げに笑い出した私を、皆が驚いて見つめている。声に出して笑ったのは久しぶりで、思うより傷痕に響いたけれど、いつまでも笑っていたかった。
・・・ああ、今の全てが、私に温かい。
「・・・ふふ・・ごめん、甘いっていうのは、ウソ。・・でも、身体にはとてもいいらしいよ。病後や、つわりが上がってすぐの妊婦さんに滋養強壮薬としても使われるらしいから、栄養はすごいんだろうね・・味は悪いけどそういう訳だから、せめて口付けた分は我慢して食べなさい・・。ね、」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
呆けて私を見る彼らを見つめ、ひとつ微笑み、さぁ、みんなも好きなのを食べなさい、と瓶を指す。そして、アスタに渡してもらったプルーンを少し、囓る。皮は思うより柔らかく、すぐに口の中に甘酸っぱい味と香りが広がった。美味しい・・・こんなにたくさんの種類のドライフルーツなんて、久しぶりだ。カレダン・・ありがとう。
笑顔で、もうひと囓りして、噛みしめる。と、アスタが、瓶の蓋を閉めながら伏し目がちに呟いた。
「・・・さん、・・なんか、その・・・・・・」
「ん・・?どうした?」
丁寧に種が抜いてあると気付き、手元のプルーンを全て口に放り入れ、アスタを見た。アスタは何かを言い淀んで、視線を少し散らしていた。手元が落ち着きなく蓋を握って、・・・・・やがて、ひと呼吸、ふ、と、軽く息を吐いた。
「・・・・・・・・・・・・・いえ。・・・ラデュロスって、昔食べたとかですか?やけに詳しい・・」
「親父さんに教えてもらったんだろ?」
「!!っあ、ビクトールさんっ・・」
「!わっ・・びっくりした」
皆が驚いて一斉にそちらを見た。いつからそこにいたのか、全員が気づかぬ間に私のベッドの足元、ノイの背後に、ビクトールさんが立っていた。腰に手を当てて、いつもの太々しい笑み。
久しぶりに見る彼の姿は、最後の合戦に赴く際より更に細かな傷が増えている気がした。剥き出しの腕には小さな擦り傷が目立ち、そのほとんどが赤く縁取られ、それらが真新しい傷だと強く主張している。
出陣の前に見た、右側の頬から下へ、首筋にかけての火傷は、瘡蓋から新しい皮膚にほぼ生まれ変わっていた。
見上げると、強く輝く瞳の色。今の彼の心が活気に溢れていると、それだけでしっかり伝わってくる。
ああ・・・元気そう。つられて、微笑う。
「これはお前等みてぇな若者が食うもんじゃねぇの。オレらみたいな疲れきった大人が、昼も夜も色々頑張るために食うのよ。ホレ、貸しな。ん、・・・あー渋ッ!」
振り返ったノイとツェンダヌの手から、ビクトールさんがパパッとラデュロスを取り上げ、それをふたつとも自分の口に放り込んだ。顔を顰めて、大して噛まずにぐっと飲み込む。
昼も夜も色々、の例えに深く行き着いたらしいアスタとノイが、少し耳を赤くして視線を泳がせた。
・・もう。相変わらずだなぁ・・。ビクトールさんの、いつも通りの少し品のない軽口に、私は、ふ、と溜息をついた。確かに、ラデュロスはそういった意味合いでもよく用いられると、物知りの男衆の間では有名だ。ビクトールさんが知らない筈もない、か。だからって今、それを若い彼らの前で言わなくてもいいのに・・。
皆の間に流れた微妙な空気感など素知らん顔で、ビクトールさんは私のベッドの脇を回り込み、私の足元にどっかと座った。ベッドの木枠がギシッと重く軋んだが、彼は構わずそこにそのまま、背中から半身仰向けになり、ぐいっと伸びをした。
「代わってくれよ〜戦終わってからろくに休まずぶっ続けで誰も労ってくれねぇんだぞ疲労が溜まって死ねるぜオレぁ!あーあ!・・・・・・・なんだよお前ら、まだソレ食ってねぇの?」
唐突な来訪から戸惑い気味だった彼らが、ビクトールさんの言葉にハッとなる。私もだ。カレダンからのドライフルーツに浮かれて、昼食を摂るのをきれいに忘れていた。
ツェンダヌが慌てて、トーニャの足元に置いたままだったもうひとつの包みを開け、厚い豚肉が挟まれたサンドイッチの切れをひとつずつ取り出し、ノイやトーニャに配り、自分もひとつ、ぱくりと頬張った。アスタがチラとツェンダヌを見てから、少し不機嫌そうな低い声色でビクトールさんに問うた。
「・・ビクトールさんこそ、もう食べたんですか?アップルさんの用事は、」
「カレダンに押しつけてきた。アイツが聞いてりゃオレが聞く必要も無ぇだろ。アップルもアップルだぜ。女が真っ黒な隈作って、成った初めが一番肝心なんだとかってまぁ張り切りやがんの。早晩ぶっ倒れるぜありゃ。お前は、・・いい顔色してんな」
足元の正面から急に見つめられ、一瞬返事に戸惑ってしまった。ビクトールさんと久しぶりに交わす言葉に、素直に現状のそのままを伝える。
「・・お久しぶりです」
「ブッ、・・ああ、久しぶりだな。ちゃんと飯食ってっか?これか?今日のお前の昼飯は」
ビクトールさんは私の挨拶の後に愉快げに噴き出すと、私の足元・・今半身寝転がっている手元に、ノイが持って来てくれたあと、そこに置いたままになっていた昼食の紙包みをひょいと胸に持ち、包みの口を開けようとした。それを見たアスタが慌てて包みを取り上げて、
「ちょっ、ビクトールさん、オレがしますから」
「なんだよ。もうてめぇで食えるんだろ?」
「いや、そうですけど・・オレが出しますから、そこどいてください」
冷たい表情でシッシッ、と、まるで犬猫を払うような仕草で、ビクトールさんに向けて手の甲を振った。
ビクトールさんは眉を顰めて半目でアスタを見つめたが、アスタは構わず包みを片手に持ち、片手で、ビクトールさんの腕の下敷きになっていたナプキンの端を掴み、邪魔だ起きろ、とでも言わんばかりにビクトールさんをそのままキツく睨み上げ、牽制した。
なんだよこの扱いは、とかブツブツ文句を言いつつも、起きあがり座り直したビクトールさんを見て、私は、実はかなり、驚いていた。
・・・・アスタは第2のカレダンになれる素質があるなぁ。と、いうか・・・さっきも、昼食を取り合いしたと言っていたけど、彼ら、いつの間にビクトールさんと仲良くなったんだろう。ハイランド領への出陣の前まで、彼らはビクトールさんとはほぼ接触が無く、言葉を交わす事すらそう無かった筈なのに・・・・?
ビクトールさんに対するアスタの、上を上とも思わぬ、というくらい強気の仕草に、私がひたすら首を傾げていると、アスタから私に、優しく差し出された白パンのサンドを見て、ビクトールさんが更に視線を細くして口をへの字に曲げて、言った。
「・・・フーン。・・・・いいな、ちょっとオレと代わろうぜ。もうそろそろ剣ブン回して暴れたくなってきた頃だろ。仕事は山積みだぜ」
アスタのような若い兵に軽くあしらわれて、ビクトールさんは怒るでもなく、まるで子供のように拗ねた顔で私を見
た。
・・・・今在る彼の姿は、ハイランド領での戦いの前も、今も、何ひとつ変わらない。
とても自然に今の私を受け入れ、以前と同じように接してくれている。
私が必要だと、・・・・・・・不甲斐無い姿の、今の私でも、
以前と同じく、求めてくれる彼に。
「・・・はい。許しが出れば、明日にでも」
にこりと笑い、強気の軽口で返すと、ビクトールさんは、なんだ、懲りねぇ奴だなお前も、と、ガハハと笑った。
豪放で、平等。
そんな彼をたくさんの人が信頼し、とても慕っている。
私もその一人だと、今、心からそう思えた。
この人の下で戦えて、良かった。
改めて辿り着いた、誓いのような想いに満たされて、緩く微笑んだままビクトールさんを見つめていると、彼は、そんな私の視線を受け止めて、何を思ったのか・・、ゆっくりと私の方へ手を伸ばし、・・・・・・・ ・・
「・・・いい顔だ。血色のいい頬してらぁ」
ざり・・と、剣を持ち続けて固くなった、荒れた指の腹が私の頬を撫でる。
てらいのない、かつての自分の父の様な仕草と、心地よい手の平の温度に、私は従順に目蓋を閉じた。
一拍ののちに、開ける。私を見つめる、濃い労りの色が、目尻に緩く浮かんで、少しの影を落とした。
「・・・・・気合い入れて直せよ。そんでオレがぶっ倒れる前に仕事変わってくれ。じゃーな」
最後にまた軽口を叩くと、彼は、ギシッ・・と、再度ベッドを軋ませて立ち上がり、お前等もさっさと飯食って仕事しろよ、とアスタやツェンダヌの頭を順にがしがしっと撫でて、戸口の方へ淀みなく去っていった。
私達は、ビクトールさんの残した温かさに、互いに顔を見合わせてひとつ笑い、それからやっと、それぞれ昼食を摂り始めた。
その後、皆の昼食が終わり、後片付けをしていた最中にカレダンが勢いよく現れた。私との、久しぶりの挨拶もドライフルーツのお礼もそこそこに、お前達にも仕事が出来た、とアスタとツェンダヌを引きずって出て行き、その日の内に、ノイとトーニャを除く隊の全員が、クスクスの町の港の警備に、補充兵として狩り出される事となった。
・・・・眠れない。
いつもなら、月が夜空の中天を飾るこの時間は、薬が効いてぐっすりな筈なのに、今夜はなかなか寝付かれず・・・。寝返りをするたびに傷む傷痕に、少し嫌気が差し始めていた。それとも、そういうことを考える、気にすることの出来る余裕が、体力的に戻り始めてきた、ということなんだろうか。寝つかれないのも・・・その証?
「・・・・・ハァ、・・」
風に煽られて消えないようにと、細長い瓶の中に立てられた小さめの蝋燭が、手元を緩く照らす為に、ベッドの枕元の壁に沿ってそれぞれひとつずつ設置されている。
少しだけ顔をそちらに傾げて、蝋の減りをチラと見つめる。・・・ゆらり、ゆらりと炎が揺れて、それと同じ動きで、壁を柔らかなオレンジが彩る。
隣のベッドからは、スースーと心地良い寝息が漏れ聞こえた。トーニャはぐっすり眠っているらしい。今日も、夕方、ホウアン先生に診てもらっていたとき、また、傷の治癒速度の早さを褒められていた。
じっとしていてもしっかりお腹が空き、しっかり食べ、しっかり眠る。早くみんなと一緒に警備の仕事に就きたい、と、ベッドの中でだが軽くリハビリまでし始めた彼の意欲に、私は感動すらしていた。だって、あんなひどい経験をして、生死の境を彷徨って・・・・・
逞しい。
これが、生きるということの根底の強さなのだろう。
毎日が、生きていることが素晴らしいと思えること。
仲間と笑い、明日を夢見ることが、人生のうちの貴重な一瞬であり、また、永遠であるということを、知るということ。その事こそが、これからを生き抜く為の強さに繋がることを、トーニャは知った。
そして、死と向き合った恐怖と苦しみを、乗り越えるということ。
それを、ごく自然に消化し、身の内のものとして、その上で、自分の日々のその先を選択していく。
「・・・・・・・・・・」
トーニャのベッドの方に横を向いていた身体を、傷のある腹を軽く押さえつつ、ゆっくりと仰向けに寝返りを打った。
天井は暗い。蝋燭の明かりは柔らか過ぎて、そこまでは届かない。
戦争が終わり、町は平和を取り戻し、そこにひとつの国が成る。
そう言葉にするには簡単だが、実際それを執り行うとなると、きっと、私などには想像もつかない大変な労力を、そこに要するのだろう。
今後ここに、国として沢山の人が住む。
この城を拠点とし、周囲に家々が立ち並び、徐々に賑やかな街並みを形成していく。
その現実は、たくさんの国々と対等に渡り合っていくだけの政治を隙無く展開していかなければ、また再度、血で血を洗う惨状を繰り返す事にもなりかねない事実を、常に背に負っている。
周囲の国々の動向を探りつつ、腹の内を覗き見しつつ、優秀な人材を欠かさず適所に配置し、国内外のどんな小さな諍いにも、迅速に対応していかなければならない。
そこにたくさんの思惑が介在する以上、誰にもどこにも何一つ反発を受けず事穏やかに進めていけるなど、あり得ない。だからこそ、成った今、どんなトラブルも小事で済ませたい きっと、軍師殿はそう考えて、城に戻る途中の道々からもう、動ける人材を適材適所に素早く配置した。
それぞれの街に通じる商用ルートの警備や、ハイランド贔屓だった街や商人との軋轢もある。砦や、国境の見張り台の安全も、いつも以上に確かなものにしておかなければならない。現時点では、逃亡し徒党を組んだ敗残兵が、いつどこから襲ってくるとも限らないのだから。
「・・・・・・・・」
月が見たい。
身体を起こそうとして、止めた。今日の夜番はトウタくんだ。夜番の時彼はいつも、ホウアン先生の本を読み漁り、勉学の時間に充てている。向学の志がとても高く、日々の努力を怠らない。そんな彼の邪魔にはなりたくない。
覚束無い足取りで不用意にベッドから出て、もし転びでもして彼の手をとることになったら・・そんなこと、いやだ。
足元の斜め向こう、壁に並んだ薬棚の上に、高めに設置された窓から見えるのは、ただの黒い空間。ここからじゃ、星も見えない。
目を閉じて、淡い蒼が周囲を取り囲む、満ちた月を想像した。それは、触れそうなほどに近くて、・・・・遠い。
・・・・馬車の中で気付いた時、薬のせいか朦朧としていて、微笑んでくれたフリックさんに何も問う事が出来なかった。
彼は馬車から降りて、そのまま二度と戻らなかったし、その後、・・・会いにきてくれるなんてことも、・・無かった。そしてそのことを、・・・当然だけど、誰にも、何も聞けなかった。
なかなか日中にちゃんと起きていられなくて、勝利の後の日々が皆にとってどのように流れているのか、ぼやけた思考ではちゃんと考えがまとまらず、しばらくは周囲に対して盲目で、私がただ横になっている間、彼らがどんな日々を送っているのか、何も気付けなかった。
昼間眠る時間が少しずつ短くなっていき、それに併せて、冷静に物事の流れを受け止められるようになってきた頃に、他の患者の見舞いに来た兵達の話が漏れ聞こえて、やっと今の、皆の現状に合点がいった。
城に戻ってから、アスタ達以外は誰も姿を見せず、ビクトールさんやカレダンや、・・・フリックさんの姿も、馬車の中で見たあれ以来、一度も目にしていない。その理由がやっと理解り、・・・・休む間もなく頑張っているんだろう彼らに対し、不謹慎だが、・・ちょっと、ほっとした。
・・見限られたのかと、思った、から・・。最後の最後に、こんな、みっともない私に・・・・・。
城へ戻ってから、私は、自分が生きていた、という事実に自然に感謝した。
トーニャの穏やかな寝息を隣のベッドに聞き、ノイのいたわりの声を傍らの椅子から受け止め、アスタの、私を叱咤するようなちょっとむくれた顔が、レジャンやツェンダヌらの無邪気な笑顔と共に添い、私を窘めた。
あの合戦の日。
怪我を負い、陣営に戻って来てからの私のとった行動は、とても軽率だったと、今更ながら思い知らされる。
苦しい、と、必死で目を逸らしても迫ってくる現実に、思い詰めたのは事実だ。そして、そこからくる独りよがりな感傷からの、自分勝手な行動だった事も、間違いない。
・・・・・・・苦しかった。
辛い過去を背負っていると知っていて彼を好きになったのに、私ではない、彼女を求めてやまない彼を、もうこれ以上見たくなかった。
彼が傷つくからと、自分を抑え、結果、焦燥に翻弄された。
自分の中にある現実。もう居ない彼女への、強い嫉妬と、羨望。
改めて強く気付かされた、私の中に有るその事実が、胸の奥をひどく抉った。
好きで、好きでたまらなくて、求めているからこそ、だから、と、狂おしさに叫び、狼狽え、・・・・そこから、身動きできなくなった。
自分の嗚咽に、呼吸がうまくいかず眩暈がして・・・・。
自然、あの時の視線の先の、鳥の群れを思い出す。山あいに夕焼けの暁と、群青に塗られた、高い空。
死に向かうのかと、一瞬の覚醒と、そのすぐ後に迫ってきた、穏やかな眠りの前の微睡みのような、甘い時間。
「・・・・・ハァ・・」
胸苦しくなって、つと、重い息を吐いた。見つめ直す事に、少しの抵抗を感じていた。今更、死が怖くてたまらなかった。
あの時は、恐怖など感じなかった。ただ、そうなるのかと。自分も、そうなってしまうのか?と、血を失い、判断力を失い、麻痺した頭でぼんやりと、考えるともなく、現実に身を任せていた。
そうして、少しの、静寂のあとに、
・・・・・・思い出したのは、彼の言葉。
・・・フリックさんの、言葉。
「生きよう」、という言葉をくれた彼に。
もう一度、会いたい。
もう一度、触れたい。
見つめ合って、他愛のない言葉を交わして、笑い、そうやって流れていく時間を求めて、
ああ、『生きたい』、と。
とても静かに、想った。
生きて、その先になにがあるかまでは気持ちが行き着かず、ただ、そのことだけを穏やかに考えた。
ただ、静かだった。
目が覚めて。
揺れる馬車の中で見た、フリックさんの優しい微笑み。
今まで見た、記憶の中のそれより更に、更に深く、温かかった。
静かに、出来るだけ静かに、足音を忍ばせて、そこに近づいた。
深夜をとうに過ぎ、もうあと2時間もすれば夜も明ける。蝋燭はかなり小さくなり、それでもオレの到来を、大きく傾いだ炎で示した。ジジ・・と、剥き出しになった芯の焼ける音。
そっと枕元に立ち、そこを覗き込む。はぐっすりと眠っているようだった。こっちに背を向け横になり、顔半分を毛布に埋めて、・・目元が軽く顰められて、なにやら寝苦しそうだ。・・痛むのか?それとも、・・・・
息苦しいのかもしれない。そう考え、そっと、彼女の顔元に手を伸ばし、口元を覆っていた毛布をゆっくりと首の方にずらす。唇が見えて、・・・やわらかく開いた隙間から、規則的な呼吸音が、僅かに耳に届く。
その証に触れたくて、指先を唇の前に持っていく。届く吐息が温かい・・・。安堵の息を吐くと同時に、そのまま口付けたいという衝動に背を圧された。自然、頬に触れようとしている自分に気付き、慌てて手を引いて、・・・・枕の上に乱れて広がった彼女の髪の先を、そっと、撫でた。
「・・・フリックさん?準備できましたよ」
「 すまん。今行く」
トウタの呼び声に慌てて、けれどしっかりと声を抑えて返事をする。手当てが済んでから、もう一度顔を見にこよう。反転した勢いで生まれたマントの風に煽られて、再度蝋燭がジジ・・、と鳴いた。
ここに来た時と同じように、足音を抑えて、のベッドからは真向かいの奥、トウタが治療の為に道具を広げた診察台の方に向かった。
「かなり深いですね・・ちょっと切っていいですか?じゃないと器具が破片まで届かないかも・・」
「ああ、頼む。叫び声を上げずにすむ程度にな」
「アハッ・・大丈夫ですよ。一瞬ですから・・・」
なんて、言った拍子にパチンといきやがった。肉の裂ける衝撃に、ッつ!と思わず呻いてしまう。だが、そんなオレを見てもトウタは、動じること無くクスクスと笑い、治療を続けている。フリックさんのそんな顔、滅多に見られないですからね、なんて、憎まれ口まで叩きやがって。・・まったく。
トウタの治療の腕も肝っ玉も、傭兵隊の砦に通っていた頃に比べると、驚くほどに成長している。
この戦いでトウタが得たものは、何物にも代えがたい、経験という宝だ。それが、沢山のかけがえの無い命達と引き換えという、凄惨で皮肉な結果からであったとしても。
救えなかった命達も、悲嘆にくれて流した涙も、これからの人生でどれだけ取り戻せるか・・。診察台の隣の机に、所狭しと広げられている分厚い医学書や、ホウアンが書きためたと思われる過去の診断書の数々が、トウタの心に新たに刻まれた大きな決意を、そこに顕にしているように思えた。
いつもはお団子に結っている髪も、深夜という時間からか後ろに引っ詰めて括っている。見慣れないその姿に、オレは僅かな違和感を感じた。 ふと、机に広げられた書物の横に、紙片を束ねた手作りの手帳があることに気付き、そして、そこにトウタの幼い字が隅から隅までびっしりと書き綴られているのを見て、ついポロッと本音が漏れた。
「・・・・・・・・・・先は長いぞ。あまり無理するなよ」
「え?」
トウタはオレの腕の治療に夢中で、ちゃんと聞こえなかったらしい。聞き返してきたが、・・・手元から目を離さず、真剣にオレの傷の具合を調べているトウタのつむじを上から見ていて、無用な節介だった、と気付き、繰り返すのは止めた。
「・・・いや、・・・・・・なんでもない。・・ ッつ!・・・痛い。お前ッ・・・わざとやってないか?」
暗くて見辛かったのか、トウタはオレの身体を少し押し、傷口のあるオレの右手の二の腕を、ランプの明かりに近付けた。 と、傷の脇を親指の腹で強く押し、その横から人差し指で傷口を広げると、先の曲がった鋏のような器具をそこに差し込んで、圧されたことで顔を出した鏃の破片を引き抜いた。一連の動きに当然、傷周辺にひどく激痛が走り、オレは思わずまた呻いてしまった。衝撃に苛立ち、指の先がイジイジする。つい愚痴を零すと、トウタは眉間に深く皺を寄せて、オレをギッと睨んできた。
「そんなことないですよっ。フリックさんこそ、どうして先に手当てしてから戻らなかったんですか?鏃の先の破片、こんな深くに残ってたのに、・・馬の手綱を操るとき相当痛みませんでした?ここに腕を動かす筋があるんですが、・・ここ、」
と、また傷口の横を強く押し、グリッと捻るように圧迫した。っ!
「いッ!タ、・・わ、分かった分かった」
「分かってませんよっ。いいですか?ここにもし悪い菌が入ってたら取り返しのつかないことになるんです。だからしっかり消毒してから縫わないと・・」
言うが早いか、指の腹で傷口をぐいっと開いてから、消毒液をたっぷり付けたガーゼを器具の先に挟んで、それを中に押し込んだ。!!ッオ、イ!
「ッ!!・・〜〜〜〜〜!!」
「・・・プッ。アハハッ・・今のフリックさんの顔、よく見ておかないと・・」
年の割には戸惑うことなく、落ち着いて治療を進行している、といえば聞こえはいいが、・・お前もうちょっと予備動作というものをだな・・と、また愚痴りたくなる。中に溢れた血を拭うように消毒し、ガーゼを取り出すと、もう一度傷口をグッと開いて、その中をよく覗き込む。透明な消毒液と血が混じり、濁って落ちて、少し床を汚した。
「・・ッ!・・・・・・、・・・・・・・・・・・・ハァ〜・・。ったく・・」
「・・・はい。じゃ、縫いますよ。5針ほどですから・・すぐ終わりますからね」
「ああ。・・お手柔らかに、な」
「クスッ・・はい」
針の刺さる衝撃を想像し、拳を握り締めて待ち構えるオレに、トウタの口元がまた綻んだ。懐かしい、・・砦でいつも見ていた年相応の笑顔を、久しぶりに見た気がした。
針に糸を通す為に集中しているトウタの横顔を見ていて、ふと、自分の心の奥で、同じ年の頃の子供と屈託なくはしゃぐ過去の彼が、もう一人前の医者として治療器具を躊躇なく取り扱う、腰の据わった今の彼とうまく同調していないことに気付き、つい苦笑する。
皆に同じ時が流れている。
自分のことに囚われすぎて、その現実を見過ごしがちだ。・・・まったく。
オレはハイランド領から城への岐路で、一足先に城に戻っていたシュウからの指令を受け、燕北の峠付近の警備に回っていた。
戦争終結の報を聞き、戻ってきた避難民のサポートや、王国の敗残兵や他国の干渉を警戒しての、新同盟軍としての新たな砦の建設、そして旅商人の出入管理など、数え上げればキリがないほど、他にも仕事はいくらでもあった。毎日、日の出から動き、深夜まで雑務が続く。もう限界だと悲鳴を上げそうになった頃、ミューズからジェスが、事務処理の為の人員と警備兵を多く寄越してくれ、おかげで予定よりも早く砦完成のめどが立ち、避難民や旅商人の出入の手配も順調に進むようになった。
同時期、オレの部隊の中では、ハイランド領からそのままこっちに回った為に、家族に会いたい、無事な姿を見せたいと、里心がついた兵も多く見られるようになってきていた。ジェスの采配に助けられ、時間的には少しのゆとりも見えたことで、オレとディックは期間を決め、順繰りに兵を数人ずつ、交代で城に帰す事にした。
しばらく経って、期間を守り戻ってきた兵の一人が、アップルからの手紙をオレに届けた。峠付近の警備の陣頭指揮をディックに任せ、一度城に戻ってほしい、と。
途端浮かぶ、馬車の中で最後に見た、の寝顔。
オレは、城に戻れる嬉しさに緩みそうになる口元を手の平で覆い隠し、細かい段取りを決める為、ディックの元へ急いだ。
城への帰還を明日へと控えたその夜、峠周辺を根城に潜む山賊達の襲撃に遭った。関所は旅の商隊を大小5つも迎えて、深夜まで大賑わいだった為、兵の大半が泥酔していた。
油断が無かったと言えば嘘になる。だが準備はしていた。心構えもあった。だからその状況下でも、個々に、思うよりも迅速に行動する事が出来た。結果、被害は最小限に、戦闘は数時間でカタがつき、山賊の大多数を捕縛する事に成功した。兵の中には、酒が入っていたせいで威勢が良すぎて無茶をして、結構なケガを負った者も多く出たが、死人が出るには至らなかった。
オレは結果を急いて迎撃の輪から飛び出し、山賊の頭の首を狙った。その際、木々や岩場の影から狙いを定めていた数人の弓の先も、月に照り、目の端に見えていたが、それでも、勝利への確信から、突っ切る事を止めなかった。オレは四方から飛んでくる矢の先を剣で叩き落とし盾で払い、速攻で頭を伐ち落とした。
叩き割った矢の鏃の破片が右腕に刺さっている事に気付いたのは、全てが終わってからだった。
傷の手当もそこそこに、捕らえた山賊を、その隠れ処の場所を尋問する為に数名残し、後はミューズへ、そして人と物の被害状況の確認を急ぎ、あらかた片付けたその後すぐに、あとをディックに全て一任し、帰城の順番を待っていた数名の兵と共に峠を出て、城に向かった。
早く、顔が見たかった。
馬車で別れてからもうかなりの日数が経っている。
傷の治りは順調だろうか。メシはちゃんと食えてるか?
オレがどれだけ心配したか、言葉にはとうてい出来そうもない。ただ、強く抱きしめて、瞳を見て、そこにある生の証を感じたい。それにひたすら餓えていた。
パチン、と、小気味のいい音が響いて、トウタが鋏を使い、糸を切ったことに気付く。
チクチクと迷い無く縫い進むトウタのつむじを、見るともなく意識を飛ばしていたら、5針はあっという間だった。痛くなかったと言えば嘘になるが、トウタの手捌きはもう慣れたもので、縫うのに躊躇が無い分、こちらの痛みも少ないように思える。
本当に、この戦いを境に一気に成長してしまったんだな、と、妙な感慨を覚えて、しみじみと、縫い痕の整然さを見つめた。
「・・じゃ、包帯巻きますね。もう少しですから、そのまま腕上げといてくださいね」
「ああ」
返事をして、トウタの手元を静かに観察する。消毒薬に浸してあった薄いガーゼを縫い目に乗せて、その上を、真っ白な包帯が滑るように伸び、トウタの手からオレの腕にリズムよく巻かれていく。
ガーゼの水気がヒヤリと冷たく、熱を保った縫い目に心地よく浸みた。
「・・・・・フリックさん・・?」
ふと、背中から届く呼び声にハッとしてそちらを振り向く。・・・!
緩い動作ではあったが、半身起きあがり、こっちを見ている。寝起きで視界がはっきりと定まらないのか、診察台横のオレとトウタの姿を、目を擦り、何度も確認していた。
の動きに合わせて、蝋燭の心許ない炎から生まれる影が、背後の壁に広がり、波打つ。
オレはそっちに振り向いた勢いそのままに、立ち上がろうと腰を浮かしかけた。
「、」
「あっ、動かないでくださいフリックさん。もう済みますから・・・・」
「!っあ、ああ・・すまん、・・・・・・・・・・」
トウタに制され、オレは落ち着きなく椅子に座り直した。包帯を巻くスピードが心なしか速くなったことに、申し訳なく思いつつ・・・、オレは再度の方に顔を向け、蝋燭に優しく照らされ、ぼんやりと白く浮かび上がる彼女の姿をもう一度見てから、すぐに視線をトウタに戻した。
早く、近くで顔が見たい。はっきりとした意志でオレの名を呼ぶ彼女の瞳を、正面から見たい。
カシャリ、と、鋏を置く音と共に、素早く包帯の端を始末し、トウタが顔を上げた。
「・・・・・・んしょ。・・ハイ、終わりましたよ」
「ありがとうトウタ。勉強中にすまなかったな」
「はい。しばらくはちゃんと包帯換えて消毒してくださいね。・・・あ、フリックさん!手袋・・」
さっと立ち上がり、ガタガタと椅子を診察台の下に押し込み、トウタの顔をもう一度見て礼を言い、そのまま素早く反転したオレを、トウタが慌てて呼び戻した。っと、そうか、
「 あ、すまん。・・・・・」
再度反転し、トウタから手袋を受け取る。邪気の無い顔で、ハイ、とオレに手袋を渡し、
・・た拍子に、トウタは、とんでもないことを口にした。
「さんのベッドの端に、診察の時の為に作った即席のカーテン付いてるんです。それ、閉めてもいいですよ」
「・・・!!」
にこり、と微笑ったトウタの額に、オレは反射的に平手を喰らわしてしまった。パチン!と景気のいい音と共に、トウタが、痛い!と顔を顰める。・・今ので、せっかく勉強した医学用語のひとつやふたつはどっかにとっ散らかったかもな。ったく・・・そんなところまで背伸びしなくてもいい。
ジロリ、と睨むと、エヘヘ、と笑い、・・・・後ろに括っている髪をわざと乱すように、トウタの頭をくしゃりと撫でて、もう一度礼を言ってから、の方へと向かった。
・・・トウタの余計な節介のせいで、ふと、のベッドの脇に、一束に纏めてあるカーテンに目が行く。・・バカかオレは、と、反射的に自分を叱咤して、手袋を剣帯にグッと挟み込んだ。
カツンカツン、と、思うより響く自分の足音に、そこへ向かう自分の気がどれだけ急いているかを思い知る。
「・・・・・・・怪我、したんですか?大丈夫ですか?」
枕元に行き着く前にそう問われる。の瞳が心配そうに、オレの腕に巻かれた包帯と、オレの顔元を行き来する。・・・さっきは蝋燭に背を向けて眠っていたから、その顔色までは分かり辛かった。思ったよりも彼女の頬の血色が良くて、ホッとする。
自分で起き上がって、オレを見て、喋っている彼女の姿に、湧き上がる喜びが、そのまま彼女を抱きしめたいという欲求に変わる。・・・だが、だめだ。今はまだ、こんな風にずっと起き上がったままでいるのは傷に障りかねない。
オレはのベッドの枕元に行き着くと同時に、彼女の顔元に手を伸ばし、指の先で彼女の額をトン、と押した。同時に身を乗り出し、右手で彼女の背を支え、出来るだけ負荷無く仰向けにさせた。
「?えっ・・、・・・・・」
「横になれ。まだ自力で起き上がるのは早い」
急に重力に圧され、ベッドに横になった自分に、意識がついてこなかったのか、は目を見開いたまま呆けて、オレを見た。
・・それでも、オレが微笑うと、毛布の端を握り、顔に寄せ、小さく、すみません、と、呟いた。・・・頬が赤くなった。
・・・・・・・やっぱりカーテン、閉めておけばよかった、・・か。
そのまま喰らいつきたいほど愛しい、の表情の変化に煽られつつも、オレはの身体から手を離し、拳を握り締め、衝動をしまい込むように腕を組んだ。
近くで顔を見たい。そう思い、ベッドの脇に座ろうと、周囲を見渡して手近な椅子を探したが無かった。取りに行く時間も惜しんで、そのままそこへしゃがみ込み、彼女の顔を見ると、意外に近い。
「・・・・・・・・」
天幕の中で、常にその距離で彼女の顔を見つめていた時間が、オレの中に戻ってくる。
組んだ腕も自然にするりと外れ、つい、そのまま彼女の方へ手を伸ばしてしまった。
手の甲で彼女の頬に触れ、その体温を確認し、手の平で額から耳の後ろへ、髪を撫でた。何度も、何度も繰り返し。
照れからか、は赤い顔で瞳を濃く潤ませて、それでも視線を逸らさず、オレの顔を正面から見つめてくる。蝋燭の方に顔を向けたことで、ガラス越しの炎に浮き上がる彼女の唇の照り。艶かしく誘うように、炎の揺れに合わせ、緩く色変わりして、・・・・薬を飲ませる時、そしてその後・・深く口付けた時の、の唇の弾力が鮮明に蘇り、・・今すぐ、もう一度、と、身体の奥から激しい情欲が突き上げてくる。
抑えようと必死で足掻いても、視線がどうしてもそこへいってしまう自分の節操の無さに、少し呆れる。心で自分に苦笑した。
「・・フリックさん、あの、・・怪我は、」
「 ゴホン。・・・ああ、オレは昨日まで燕北の峠の警備に回ってたんだが、山賊の襲撃に遭ってな。だが被害は最小限で済んだし、オレの怪我も大した事はない・・・・・・」
寝起きの掠れた声で名を呼ばれ、普段よりハスキー気味なその声に余計煽られてしまい、・・・オレは平静さを取り戻そうと一度咳払いをし、簡潔に事の次第を話して、下心を取り繕おうとした。大丈夫だ、と、言い終わる前に、の手が毛布からゆっくりと出てきて、オレの右腕の怪我に触れた。
「・・・・熱を保ってます。冷やした方が・・・」
「 いや、・・・・・・・」
包帯に向かって伸びてくる細い指に、一瞬見とれて、
オレは、思わず彼女の手を取った。握ったまま、指の腹で撫でるように指の節を確認する。
あの時は右手だったか、左手だったか、 右手だ。仰向けに横になった彼女の頭上でオレは、オレの手に向かって伸びてきた彼女の手を取った。
「・・・・・フリックさん?」
今オレに伸ばされた手も、右手だ。人差し指から順に指の節を軽く圧し、撫でる。それを慎重に繰り返す。
が怪訝そうに不思議そうに、手元からオレの顔へと交互に見上げてくる。
ちょうど拳の幅ほどに裂けたの腹の傷。赤い肉がぱっくりと口を開けて、へその斜め下、周囲の皮が少しふやけて浮いていた。縫いづらそうにしていたホウアンの額の汗。
荒げられていた呼吸がどんどん浅くなって、再度意識を失ったと分かったとき、オレは皆のように名を呼ばず、呆けた口元でただ彼女の手を強く、力の限り握りしめていた。
「・・・・・・・・・・・・」
小指まで全部、節に異常が無いか確認して、彼女の表情に痛そうな素振りも見られなかったことに少しほっとして、
彼女の手は、剣を持つ女性の手だった、と、改めて思う。
・・・・それにしては、でも、・・やっぱり、剣を握るにしては少し、華奢な作りだよな。・・似合わない。
なんて言ったら、彼女は怒るんだろうか。それとも・・・・
問うような顔でオレを見つめるの右手を、無言のまま毛布を少し捲り、ゆっくりと中に戻す。されるように大人しく従う彼女の瞳が、オレの中に何があるのか、少しだけ、探るような色に変化する。
「・・・・・・・・・フリックさん、あの、・・」
「 もう一度、名前を呼んでくれ。オレの顔を見て、」
「え・・?」
真っ直ぐに、オレの目を見て、言ってくれ。オレの名を。
閉じられたままの目蓋に、
伸ばされた手に、
抱き上げた細い身体に、
看病を続ける天幕の中で、オレは、ただそれだけを、ずっと、祈るように待っていた。
待っていたんだ。
「・・・・・・・・・・・・」
「、」
「・・・・・・・・フリック、さ・ん・・・・」
「・・・・・・・・」
「フリックさん・・・・あの、・・・・・・・・・」
名を呼んでも返事をせず、じっと自分を見つめるオレに、彼女はいよいよ困った風に、赤い顔で眉を寄せた。
だめだ。もう、限界だ。
「・・・・あの時、・・」
「え・・?」
「・・・『また』、抱きしめてくれ、と、言ってくれたな・・。いいか?今・・・」
「・・・・・・・は、い・・・あ、・・ ・・・・・・」
彼女が返事をし終える前に。
オレは、横になったままのに覆い被さるようにして、その背中に手を差し入れた。シーツに触れた手の甲と、彼女の背を支えた手の平の両方に、彼女の体温を感じた。
隙間無く両手で包むと、彼女の身体はオレの胸にすっぽりと納まる。こんな小さな身体で今までを必死に耐えてきたのかと、愛おしさが込み上げてきて、その激しさに抗えず・・・・
力を込めたら駄目だ、傷に障る、と頭のどこかで必死に訴えている自分から、意図的に目を逸らした。
が苦しげに少し顔を上げ、ハァ、と吐息を漏らして、それがオレの首に触れた。・・・・オレはたまらず、彼女の額に口付け、頬に口付け、そうして・・・・・・・・・・
ガチャン!!バサバサバサ ・・ガタンッ!ガタタッ・・・・・・・
「あっ、あ!、と、・・・・・・えと、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・ 」
オレは彼女の頭を抱えたまま固まって、しまった・・、と激しく思った。・・そうだった。ここは決して二人きりな訳じゃない。トウタが・・・・・
・・・・・せっかく、カーテンを閉めればいいと気遣ってくれたのに、な・・・。
「・・・・・んんっ・・・。・・・・・こっちこそ、すまん。・・・悪かった」
トウタが起きて勉強中だったことをすっかり失念していた自分に呆れつつ、トウタに謝り、からゆっくり身体を離した。喉元まで迫り上がっていた熱情を堪え、軽く咳払いしてこの場を取り繕う。いえ、ボクの方こそ・・と、向こうからか細く答えたトウタに、オレは、もう一度心で、スマン・・、と謝った。
にも、謝らないとな・・。節操が無くて、すまない・・と、言おうとして、胸の下のの顔を見ると、・・・目に涙が溢れて零れていた。
透明な雫が次から次へと頬を伝い落ちて、その上をまた新たな涙が大きな粒となって浮かんでくる。今にも声を上げて泣き喚きそうな勢いの彼女に、オレは慌てて問いかけた。
「オイ?どうした、傷が痛かったか?すまん、つい・・・・」
「いえ・・・っ・・・ごめんなさい・・」
「え?」
「ごめんなさいっ・・・・・最後にこんな・・・みっともなくて・・・私・・本当に・・・・ごめんなさい・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
彼女が何を言いたいのか、 彼女がはっきりと言葉にはせずとも、あの時のセルエの言葉で、今のオレには、充分に理解できた。
何故自分を責めるんだ、と、彼女を慰めたい。けれど今のオレがそれを言うには、あまりにも傲慢が過ぎる。
なにより、は生きて、今、オレの目の前にいる。
それ以上の現実は今この場には不要だと、今のオレにはそうはっきりと思えた。
「・・・・・・・」
無言のままで、の頬の涙を優しく拭う。親指の腹で、手の甲で。そのまま、前髪を撫で、額に触れて。
彼女が落ち着くまで、いつまででもそれを繰り返すつもりで、オレは静かにを見つめた。
オレの手の動きに合わせ、が目蓋をゆっくりと閉じて、開く。
その度に、零れる涙の雫が、蝋燭の炎に煌めき、例えようもなく、淡く、美しい。
ふと、思う。
・・・峠で、せっかくあんなに沢山の隊商が揃っていたのに、なにか買ってくればよかった。気軽に身に付けられて、邪魔にならないような・・・・・・なにか石の入った、明るい色のものを・・・・・・
「ど、・・したんですか?・・それ、」
ふとの視線が揺らぎ、彼女の髪を撫でていたオレの左手の平に伸びる。ゆるりと指差して、そこへ異変を示した。
「え? ああ、お前が握ったんだろ。覚えて、」
「私?・・・え?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・る、訳ないか。・・・すまん。何でもないから、気にするな」
お前が、と言われ、は目を僅かに見開いて、不思議そうな顔をして、少し首を傾げた。
一拍の間を置いてしまったが、にそれ以上の不安を与えないように、オレは出来るだけ穏やかに微笑って、そう続けた。
オレの左手の平。彼女の指の節を握ったままだった右手とは別に、治療を再開した瞬間からひどく暴れ、激しい痛みに縋る場所を求め、その頭上を舞ったの左手を、オレは自分の左手で受け止めた。
彼女はまるで崖の淵に必死でしがみつくように、オレの手の平に爪を立てて、
・・・・・・覚えていないかもしれない、とは、考えてはいた。
意識を取り戻してから、呼びかけるカレダン達に微笑いかけてはいたものの、朦朧とした状態であった事に変わりはない。その証拠にあの後また一度鼓動が止まり、・・・・しばらく呼吸も浅いままで、・・・・・・・・・・・
「・・あの・・・・」
「いや、・・いい。・・・ほら、ちゃんと毛布を掛けて。・・・すまなかったな、こんな時間に」
「・・・・・・いえ、それは・・。・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
微笑みを頬に貼り付けたまま、から少し離れて、彼女の胸元から下に、ずれていた毛布をたぐり寄せ、直してやる。一連の動作の後に、またさっきと同じようにその場にしゃがみ込み、顔だけ上げてを見た。
何も無かったような顔を作ると、オレが何か隠したとすぐ察したのか、彼女の目元が軽く伏せられ、記憶の中の何かを必死にたぐり寄せようとし始めたのが分かった。暫しの沈黙・・・・・・・。
オレが居ない間に、誰かとそういう話はしなかったんだろうか。
・・・・・・・・いや、傍らで顔をぐちゃぐちゃにして泣いていたアイツらにとっちゃ、あの時の事を本人の前で言葉にするのは、まだ無理だろうな。
ビクトールは、・・・カレダン達と一緒にオレより先に他に回されていたし、まだ戻ってるかどうかも定かじゃない。仮に、戻っていたとしても、・・・・本人が覚えていて、自分で口にしたのならともかく、そうじゃないのに、奴らから先にあの時のことを彼女に詳しく話しているとは思えない、な・・。
・・・・・それなら。
せっかく忘れているのなら、 あの痛みを、苦しみを、今、治療の最中の大事な時に、無理に思い出させたくはない。
ふいに、あの時のの発した悲鳴に近い呻き声が、鼓膜に鮮明に蘇る。
「・・・・・・・・・・・」
オレは少し考えてから、自分の左手の平を、今改めてじっくり見直すように、わざと自分の眼前にゆっくりと広げた。
もこの傷の痕に、視線を向けざるをえないように。
その上で、今のにとって良いように、彼女が素直に理解し易い形で、簡潔に傷の理由を話す。
「・・・・お前が治療中にオレは、偶然その場に出くわしてな。お前は出血がひどくて朦朧としていたから覚えていないだろうが、オレは、大丈夫か、とお前に駆け寄り、お前の手を握った」
そこまで言って、右手の親指の腹で、左手の平の傷の痕、その上を軽く綴る。
そこに均等に並んで残る瘡蓋の痕に、真っ直ぐ答えが行き着いたのか、はハッと息を呑み、声を上げた。
「もしかしてこの傷、私の爪ですか?!すっ・・すみません私・・っ」
「ああ、・・・・・・・いや。・・起き上がるなよ。ホラ」
勢い込んで起き上がろうとした彼女を制して、再度、乱れた毛布をきちんと掛けてやる。・・・彼女は毛布の端を掴み、赤くなったり青くなったり、本当にすみません・・と口の中で繰り返し、オレの左手を見つめて激しく焦っている。
答えはひとつと、それ以上の事には行き着かなくて済んだらしい彼女の様子に、オレは心で静かに安堵した。が、・・・・・・・・
・・・・オレにとっては、このまま消えなくてもいいと思える、愛しい傷なんだが、な。
結果に対し、苦笑気味にも、必死に謝る彼女が可愛くて、・・・・つい、少し意地悪をしたい気持ちに駆られた。腕を組み背を丸め、顔だけ彼女の方へ向け、軽く溜息をつく。
「・・・オレも治療されるのは嫌いでな。傷を負っても戦闘中はそう大して意識しないのに、戦闘を終えて落ち着いてからは何故か倍痛むんだよな。で、治療はその更に倍は痛い」
ククッと一度軽く笑い、そして、そのまま、ゆっくりと、の方へ顔を近付けていく。
口の端だけで笑った顔で、至近距離から見つめられて、何を感じ取ったか、彼女はそのまま後ずさりするように一瞬顎を引いたが、視線は反らさずに、そのまま見つめ返してきた。
オレは更に顔をの方に寄せて、息がかかるほど近付いて、・・他の誰にも聞こえないよう、声を潜めて、静かに言った。
「・・・・・こんなに痕を残すほどに痛かったのに、こんな事言うのも悪いが、・・・」
「・・・?、・・な、ん・・ですか?」
「痛みに耐えかねるお前の顔が、・・・・ものすごく、色っぽかった」
「は」
「ハア?!!」
とんでもない事を言われ、真っ赤な顔で思わず叫んだに、慌ててシーッ!と沈黙を促す。声が大きかった事にハッとして、口元をパッと両手で抑えてから、ジロリ、と、視線でオレを叱るように睨んだ。
オレは予想通りのの反応が楽しくて、思わず、口に手を当て、クックククッ・・と、声を殺して笑った。愉快げに肩を揺らして笑うオレの様子に毒気を抜かれたのか、彼女は更に顔を赤く染め、ハア、と、溜息をつき、困惑と熱い息を共に、毛布の中に逃した。
久しぶりに自室に戻った。一番に窓を開け、もう白け始めた空を見る。
視界に薄く朝靄がかかり、湖上と空との境が暗く濁っている。その中にぼんやりと、一艘の船が浮かんでいるのが見える。もう漁に出ている者がいるのか、と、改めて時間を意識すると、途端に脱力感が身体を襲った。マントも外さず着の身着のまま、バサッとベッドに横になり、目を閉じる。
開いた窓を伝って漂い、オレに辿り着いた湿り気は、微睡みを誘うには充分な温度だった。
目を閉じて、眠りに落ちる暇に少し、瞼の裏にその瞬間が蘇る。
天幕が裂けて、雷が落ちる。剣が粉々に砕け散り、熱を示す蒸気を纏う。
の服の胸元が少し焦げていて、オレは無意識下にもそこを凝視した。肌には何の傷もなく、けれど、違和感があった。
胸が少し浮き、降りた。やがて、それをゆっくりと繰り返す。
ビクトールが怒鳴り、オレを見て、彼女を見た。
皆が彼女の名を叫び、彼女はそれに、吐息で応えた。
オレは彼女の頭を抱え込むようにして、膝を付き、頭を垂れ、彼女の髪を嗚咽に濡らした。
彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと片腕を上げ、オレの方へ、頬に触れようと手を伸ばした。
オレは彼女の手を掴み、力任せに握りしめた。
力の加減もせず、それに彼女が痛いと呻き、・・・・・・いや、いっそ、痛いと呻いてくれと、
オレから意識を反らせなくなるように。
痛いと呻き、もがいても、
もう二度と、オレから離れることは、許さないと。
もうこのまま、ずっと、オレの傍にいるんだ、と。
狂気にも似た傲慢さで、オレは彼女の手を強く、握りしめ続けていた。
今日握ったの手は、寝起きのせいもあってか、とても温かかった。
そう考えると、自分の手の平にその温もりが蘇ってきたようで、
ついさっきまで一緒にいたのに、今、傍にいない彼女に、長く離れていた昨日までよりも、更に切なさが募った。
明日、顔を見に行けば、そこに彼女は居る。
明日。
明日、彼女と何を話そうか。
好きな食べ物は何だ?と聞き、それを差し入れようか。外に出たいと言えば、抱いて歩いてやろう。彼女は、・・・嫌がりそうだ。さっきのの、困惑で真っ赤に染まった顔を思い出し、つい口の端で微笑う。
当たり前のことが、当たり前だと言える日々を、これから先、すぐ目の前にして。
大して意味はない、けれどとても大切な、そんな日常の情景を、頭の中でいろいろ考えては繰り返し、
どんどん明るくなる東の空に逆行して、オレは深い眠りの底に沈んでいった。
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