辰伶
ひどく曇っていた時間が嘘のように、雨足の激しさは一瞬で退いて、その夜は見事な満月が空にその地位を示していた。
月明かりが足元を照らす中、はいつものように一日の報告をしに執政室へと赴いていた。外に面している城内の廊下には、たとえ一時でも、そこを激しく打ち付けた雨雫の名残が、月の光を浴びて様々な紋様を描いていた。水たまりの紋様の不規則な歪みが、の心の複雑なヒダをひとつずつあからさまに指し示すようで、は思わず立ち止まった。
だがそれも僅かな事で、足下の水たまりに一瞬目を落としたかと思うと、また静かに歩き始めた。
軽く戸を叩いてから執政室を覗くと、残って仕事をしている方々が数人居て、辰伶は今日はもう自室へと戻ったと教えてくれた。ねぎらいの言葉と敬意の礼をひとつ、方々に残し、はその足で辰伶の自室へと向かった。
今だ、これでいいのかという迷いが無い訳ではない。
だが、覚悟は出来ていた。辰伶が自分を望んでくれるのなら、それに対し自分の持て得る限りの力で、辰伶の立場を、煩わせる事の無いよう務める覚悟。
自分の全てを、気持ちの全てを曝け出す覚悟。
昨夜あんな風にその場を去っていて、虫のいい事をと思われるかもしれない。
だが、まずは、伝える事から始めなければ。今の自分の気持ちを。
求めている、という、強い想いを。
今まで一人で小さな箱の中を行き来していたかのような、の中の辰伶への恋心は、セツと深く語り合え、支えてもらえたおかげで、その出口をようやっと見付ける事が出来、鬱屈した想いを昇華させるに至るまでになっていた。
辰伶の自室の戸の前に立ち、すうと深呼吸をすると、戸口を軽く叩く。
です、と、声を掛ける。しばし後に、入れ、と、辰伶の返事 。
は破裂しそうな程高鳴っている胸の奥を抑えて、静かに戸を開けた。
辰伶は仕事机にもたれる格好で、立って真っ直ぐにこちらを見ていた。
視線が熱い。
は、はやる心を抑える為、もう一度静かに息を吸うと、まず最初にいつものように一日の報告をした。辰伶は、黙ってそれを聞いていた。は、その間もただじっとこちらを見つめる辰伶の視線を受け止める事が、気恥ずかしさから出来ず、視線を逸らしていた。
そして報告を終え、手に持っていた辰伶の下着を取り出した。辰伶が、はっ、とする。
「それは・・」
「セツが拾ってくれていました。・・・その節は本当に申し訳ありませんでした」
言いながら、一礼して、足早に奥の寝室にある箪笥へと片付けに向かった。辰伶はまだ動かない。
辰伶は、どう言い出したものか、迷っていた。
紅の王に諭されて、自分の想いの形をと共に、という願いは、決して自分の傲慢では無いという事は分かった。
だが、同時に、自分はもっとの気持ちの揺れ動きを推し量ってやるべきだという事もようく分かった。
求めている、という言葉を伝えるのは容易だ。だが、どう言えば、その気持ちを何の障害も無く受け止めてくれるのか。
ただ、離さないと言えばいいのか。
それとも、政情の事はお前の心配する事ではないと安心させれば納得するのか。
・・・と、いうか、それがが昨夜自分に言ったことに対して、それを安心させる事に結びつくのか。
辰伶の頭の中は、とにかく今一度、眼前のを自分の腕の中に、という想いと、それでは昨夜自分の立場を思いやって静かに泣いたにとって、その涙に対してなんの解決にもならないのではないか、という考えで、無茶苦茶に渦を巻いていた。
だが、そんなにもあれこれと考え、最初の一言を思い悩んでいるにも関わらず、寝室で作業をするの後ろ姿を見ていると、つと、何を思う事もなく、辰伶の口から言の葉が溢れ出す。
「お前の中に、オレを求める心は無いのか」
自分でも、あっ!と思った。これではただ、恨み言を説いているだけではないか。昨夜の話には結びつかない。
だが、何故か止められない。言葉は次から次へと、辰伶の口から滑り出していく。
「心から、求めて、交わりたいと、・・・苦しいほどに願っているのは、オレだけなのか」
は返事をしない。背を向けてそこに佇んだままだ。
言い募っていて、自分の顔が険しくなっていくのが分かる。の気持ちを推し量り、思いやるどころではない。
これでは、紅の王に言われた様に、手足をばたつかせて強情を張る子供と同じだ。
だめだ。・・・・分かっている。だが。
一度手に入れたものを再度求めて、何が悪い・・・!
「ただの男と女には、なれないのか・・・!望んではいけないのか?想う人との安らぎを、オレは」
そこまで言い募っても未だ背を向けたままのに、辰伶は苛立ち、の名を呼ぼうとした。
が、その瞬間、がゆっくりとこちらに顔を向けた。
今まで、この部屋で女官として仕事をする時には見た事もないような、女の顔をしていた。
辰伶はその艶やかさに、思わず息を呑んだ。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・抱きしめて欲しい・・ぎゅっと・・強く・・」
の表情に、その言葉に、自然に引き寄せられるように辰伶は歩み寄り、そしてゆっくりとその背に腕を回す。
辰伶が苦しげに息を吐いた。
「・・・・オレは・・・」
辰伶がその先を紡ぎ出せずにいると、が僅かに頷いた。
「・・・・す・・き、です・・辰伶・・さま・・」
の言葉に、辰伶がゆっくりと顔を離し、を見た。の顔は、上気していて、瞳は心の熱に煽られて潤んでいる。
辰伶は、思った。きっと自分も今、同じ顔をしているのだろう、と。
愛おしくて、たまらなかった。
月が、青い。
夜の空気がひんやりと露を持って、二人の元に忍び寄っていた。
激しい褥の残り香を、髪に、その肌に余すことなく漂わせ、辰伶はを腕に抱きしめたまま、問うた。
「・・もう一度、言ってくれるか」
「・・え・・?」
先程までの情事の激しさに翻弄された疲れで、そして辰伶の腕の中の心地良さも相まって、ついうつうつとまどろんでしまっていただったが、辰伶の言葉にゆっくりとそちらを見る。
「・・もう一度、好き、だと・・オレを見て、・・」
少しずつ、確かめるように言葉を紡いで、の瞳の中を覗き込む。
は、その相手を目の前にして言う気恥ずかしさに照れながらも、思いのたけを込めて、言った。
「・・好き・・です・・・」
辰伶は、想う人の口から、ずっと願っていた言葉を再度耳にして、とても男らしく、誇らしげに微笑んだ。
「オレもだ・・ずっと、好きだった。これからも、オレには、お前しか見えない・・・」
「辰伶様・・・」
「あっ・・と、だが、『様』は取れ。お前とオレは同等だ。そうだろう?」
「・・・・二人きりの時だけなら」
「・・・・・」
自分の申し出に、途端に仕事の顔をしてしまったに、辰伶はぐっと気圧されてしまう。
「業務に差し支えますので。下の者に示しがつきません。そういう事はきちんと分けて考えて下さらないと」
「・・・・・・・」
の言葉に反応して、ふと何事かに想いを馳せる辰伶の様子に、が小首を傾げる。
「辰伶さ・・・辰伶?」
少し照れた様子で、そう呼び直すが可愛くて、辰伶の表情がまた綻ぶ。ついで、とんでもない事を口にした。
「・・・執務室で、したかった」
「は・・はあ?」
「様を取って、名を呼ばせて、高い声で」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・呆れた!!」
今言われた事柄に対し、赤い顔をして目を剥くに、辰伶は、ふふっ、と嬉しそうに笑って言った。
「男とは元来助平なものだ。女はまったく考えないのか?そういう事を」
「かっ・・考えてても言いません!女性にそのような事を聞かないで下さい・・!」
ますます真っ赤になって俯くに、溶けてしまいそうなほど目尻を垂らし、離れようとしたの体をぐい、と自分に引き寄せる。
「・・嬉しい・・お前とこういう会話が出来る日が来ようとは、夢にも思っていなかった・・お前が、愛しい・・・・」
「辰れ・・っ・・」
口付けと共に、いつの間にか再度、高ぶっていたものを押し付けられ、の腰に甘い痺れが走る。だんだんと激しくなる辰伶の口付けに、流されまいと辰伶を押し返そうとするが、いかんせん、今の辰伶には敵わなかった。
「んっ・・辰伶っ・・もう・・っ・・」
「・・もう一度?」
「なっ違っ!・・あっ!・・んっ・・」
の手から力が抜けていく。
後に残るのは激しさを増す、甘い、甘い、水音のみ ・・・
その後は、早く共に暮らしたいと急く辰伶の勢いに半ば推されつつ、早々に辰伶の実家に連れて行かされ、辰伶の母親に、これまた早く孫をと急かされ、瞬く間に晴れて婚約の日取りも決まった。
政治的にも万事滞り無く、そのまま穏やかに、日々が過ぎていく、・・・かに見えた。
葉が緑に生い茂り、日差しが夏の到来を告げる頃、ほたるがを連れて壬生の地に姿を現した。
先の戦いで不利な立場に追いやられた壬生の残党が、人間界で不審な動きを繰り返している との土産話を持って、である。
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