手の平で軽く湯を弄ぶと、不規則な波紋が滑らかに広がり、私はただ視線の先でそれを追い、静かに目を瞑った。
あれから、もっと、とからかうビクトールさんを放って、そのままドゥエインの怪我の様子を確認しに行き、その後一度兵舎に戻った。着替えを持って風呂に向かい、・・・そして、今、ここにいる。
一戦の後という事もあり、風呂は存外に混み合っていた。私は隅に陣取り体と頭を隅々まで流し、湯に浸かった。
体を流している時、桶にすくった綺麗な水が、自分の体を伝って赤く、染まって流れて・・・嫌だった。
気持ちが刺々しい。神経が高ぶってるんだろう。
風呂に入って、のぼせてきても我慢して、頑なに湯船の隅を動かなかった。・・・1人になりたかった。
1人になって、頭から全て湯に浸かりたい。
何もかも、湯の中に放って、真っ新になりたい。 渇望。
皆くたびれているせいか、以外に早く、人が少なくなり始めた頃、出て行く人と入れ替わりに、また1人、入ってきた。
チラと視線をそちらに移すと、その人物もこちらを見ていた。・・・・・バレリア・・さん・・。
「・・・今日は見事な戦いぶりだったな」
ふわっと笑って言った。髪に返り血が付いて強張っているらしく、後ろでひとつに纏めている。そのままの姿で忙しく、色々片付けて来たんだろう。私はバレリアさんに一礼して返した。彼女は軽く手を振ってから、人の少なくなった洗い場の中央に座り、桶で体にこびり付いた血と汗と泥を洗い流し始めた。
暫くして、その金の髪が見事な艶を取り戻した。軽く絞って、再度一つに纏め、体から雫を滴らせてこちらへ歩いて来た。ゆっくりと湯船に浸かり、私の真横に座った。
「・・今日は、ありがとうございました」
私は再度、バレリアさんに向かって一礼して、お礼を言った。彼女はまたふわりと笑って、通る声で答えた。
「礼を言われる事じゃない。お互い様だ。お前が助けた兵士の中の1人は、私の隊の者だ。お前のお陰で死なずにすんだ。礼を言うなら、私の方だろうな」
「それは・・」
「だから、お互い様だ」
慌てて恐縮した私に向かって、愉快気に笑った。そして、
「・・・・さっきビクトールとも同じ事を言い合って来た。・・・お互い、そういう部分だけは共通している。・・昔からな」
憂いのある表情で、ポソリとそう付け足した。
私は何も言えなくて、ただ黙って傍らに座っていた。
チャポン・・、と、隣で柔らかな水音がした。ふと、私の耳の裏を撫でるバレリアさんの手。
驚いて目を見張って彼女を見ると、その指先に血が付いていた。
「・・・自分ではなかなか気付かない場所だからな。私もよくある。髪が邪魔になって届かない筈なのに、と、不思議に思うんだ・・・」
さっと湯をすくって湯船の外に洗い流し、言った。私はなんだかいたたまれなくて、小さな声で、すみません、と言った。
「・・・・名は、なんという?」
私が、沈黙に気まずさを感じる前に、バレリアさんが口火を切った。
「・・・と、いいます」
「ビクトールは、共に居た者とまとめて、『アイツら』と呼んでたから、名を聞けなくてな。・・・か。優しい響きだな」
「・・・ありがとうございます」
・・・そんな事、初めて言われた。なんだか照れくさくて、ついまた視線を逸らしてしまう。
パシャリ・・と、肩に湯を掛けながら、バレリアさんが静かに言葉を続けた。
「・・・・知っているか?こういう日は風呂の湯を何度も変えるんだって事」
「え・・・」
「湯が鉄臭い、とな。言う奴がいたんだそうだ。みなキレイに流して入る筈なのに、鼻孔の奥についた匂いは拭えないんだろう。テツ殿はその要望を、その深いところまで充分に理解して、こういう日はそれこそ寝る間も惜しんでここを整えてくれているんだ」
「・・・・・・・」
「テツ殿だけじゃない。城に勤める者はみな、それぞれが私達を支える為に、必死になって立ち働いてくれている。私達が安心して帰って来られるのも、安心して食事をして、整えられた寝室で休む事が出来るのも。・・・・沢山の人に支えられてこの城は成り立っている。私達兵士は、皆に助けてもらわないとまともに闘う事が出来ないんだ」
どうしたんだろう。どうして急に、そんな事・・・・。
私は、諭すように静かに話し続けるバレリアさんの顔を見つめた。バレリアさんの瞳はとても真剣で、・・・・今日、戦場で私を見た、ハンフリーさんの瞳の様に、少し揺らいで、憂えていた。
「兵士1人の命は、城のみんなのものだ。・・・・聞いているか?」
「・・・・・はい」
「・・・・・・・・死を覚悟するのは、まだ早い。私達はまだ、何も成し遂げてはいないんだ。この城のみんなが、・・この国の、全ての民が穏やかに暮らせる日を・・見届けなければな。そうだろう?」
何故、こんなに私を労ってくれるのだろう。そう考えて、さきほどバレリアさんが私に言った事を思い出した。お前が助けた兵士の中の1人は、私の隊の者だ。・・・そうか、見ていたんだ、その人は、私の言動の一部始終を。
彼女の瞳が真っ直ぐに私を見ている。ひとつの淀みも無く。
・・・・綺麗な人だ。・・・・想いを通わせる人は、いるのだろうか?
「・・・・バレリアさん・・は、」
「うん?」
少し俯いて、問い掛け始める私に向かい、彼女は私を覗き込むように返事をした。
・・・こんな事、聞いていいんだろうか。私、とんでもない事を言おうとしている。
だが、一時の躊躇の後、結局言葉にしてしまった。顔を上げて、彼女を見る。
「・・・恋人は、居るんですか?」
「・・・・い、いや、・・な、なんだ急に」
バレリアさんは、突然の私の問いに、戸惑って、そして目を見開いた。私はそのまま問いかけを続けた。
「じゃあ、・・想う、人は?」
「 ゴホン。・・そろそろ、上がるぞ。のぼせてしまう」
「あっそんな!・・・・・不躾な質問をして、すみません。でも、教えて頂きたいんです。その、」
「・・・・・なんだ」
「・・・・・・・・命を懸けなければならない日常に居て、私達女兵士が時に女に戻る事は、許されるのでしょうか?」
「・・・・・・・・・・・」
暖かかったドゥエインの肩。カレダンの頬。
ビクトールさんの言葉。
あの時の、フリックさんの口元の笑みは、何を意味していたのだろう。
嘲笑では無く、どちらかと言えば穏やかで、少し、ぎこちなく。
何も深い意味などないのだろう。あの日、興奮してビクトールさんに怒鳴ったあの時から、顔を合わせてなかったから。仲直りが出来て良かったな、とか。そのくらい。きっと。
少し、呆れていると思う。あんな事を言って、・・・・こんな事をして。ぬけぬけと、そんなつもりでは無かったけれど、なんて、言い放った私に。
ビクトールも大変だな、とか。・・・・その程度だろう。
つい、ふと、先程の場面が脳裏をよぎって、私の視線は一瞬虚ろに彷徨った。
そして、静かに、探るように見つめるバレリアさんの視線に、ハッと我に返り、私は、自分が彼女に、急に訳の分からない事を問うてしまった事に、少し赤面して、下を向き、呟くように、続く言葉を取り繕った。
「・・・・すみません。・・・そんな事を考えるのは、私に余裕が無いだけです。恋人がいる女兵士も沢山いる。否定している訳ではないんです。ただ、・・・私が・・・」
「想う人が居るのか?」
「い、いえ・・・・・」
・・・・何も、ここまで聞いておいて否定する事は無い、と、思う。すごく、卑怯な事だなとも思う。
だけど、言えなかった。肯定出来なかった。自分の気持ちを。・・・・第三者に対し、認めてしまう事が、怖いのか。この期に及んで、私・・は・・・。
黙り込んでしまった私に対し、バレリアさんがゆっくりと、手元で湯をかき混ぜる様な仕草をして、そして、ポツリと呟くように言った。
「・・・・・・・・・私は、どちらかといえばそういう事には疎いし、不器用だから、何も上手い事を言ってやれそうにない、が、」
「・・・・・・・・・」
「・・・・もし、この人と思う人が出来たなら、きっと滑稽なくらい必死になるだろうな、と、思う・・・・」
「・・え・・・・・」
私は彼女の言葉の内容に、思わず顔を上げてそちらを見た。バレリアさんは、湯のせいか、話の内容のせいか、ほんのり頬を赤く染めて、手の平で湯を弄びつつ、ポツリ、ポツリと、続けた。
「・・・・自分がいつ死ぬか分からないのなら、・・・出来るだけその人と居たいと思うだろうし、きっと、・・・・我慢はしない」
「・・・・・・・」
と、ボチャン、と、派手に音を立てて、手を湯の中に沈めた。一つ、吐息をついて、口元に苦笑を浮かべ、チラリと私を見た。
「・・・私は、あまり男性と上手くいった試しが無いんだ。・・・フラれる事が多い。・・あまり人には言うなよ」
「・・・・・・・かっ・・可愛い!そんな、・・そうなんですか?」
その仕草と、言葉の内容が、普段の彼女にあまりにそぐわず、とても、女性的で、可愛くて・・・・、私は思わず、思った事を素直に口にしてしまった。そんな私に対しバレリアさんが、赤い顔でジロリと眉を寄せて私を睨んだ。
「・・・・・・・・・・お前、年は幾つだ?」
「29です」
「なんだ、同い年か!・・・・そうは見えんな」
また言われた。・・・本当に驚いている様が、またとても可愛く、私は彼女に対し、とても親近感を抱いた。
聞いて、良かった。少なくとも、今は、重苦しかった心が少し、軽くなった気がする。
「・・・・・・・・・ありがとう、ございます。・・・絶対、誰にも、言いません」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・誰が好きなんだ?私は今恥を忍んで話したんだ。お互いにしよう」
聞かれてしまった。バレリアさんは半目になって、今度はお前の番だ、とばかりに、からかうように私を見つめている。
私の好きな人は。
パシャン・・と、何処かで湯の跳ねる音がした。
「・・・・・・・・・・絶対に、両想いにはなれない人です・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
私はバレリアさんの方を向いて、笑顔を作った。
バレリアさんは、私の言葉に、私の表情に、少し瞳を曇らせた。
「・・・・想いを伝える前から、絶対、なんて自分で言っていたら、それは確かに無理だろうな」
「なんでそんな言い方しか出来ないの?ちょっとアンタ、こんな経験値の浅い女にそんな事相談したって仕方ないよ。私にしなさい私に」
「なっ!ア、アニタ!いつから・・」
話し込んでいた私達の脇から、いきなりのアニタさんの到来に、バシャン、と、驚くバレリアさんと私との間で激しく湯が跳ねた。びっ・・びっくりした・・!
アニタさんは腰に手を当てて立ち、湯船に浸からず、その見事な体を私達の眼前に晒している。パシャン、と、水音を立てて勢い良くバレリアさんを指さした。
「話し込んで夢中になってるから気付かなかったんでしょう。バレリア、あんたが男と上手くいかないのはアンタが男を立てないか・ら!それなりに好い体してんのに戦にしか使わないなんてもったいないったら」
「相変わらず下品な物言いだな。それに、私が男を立てるのが下手なんじゃなく、それを理解してくれる懐の深い男が居ないだけだ」
「な〜に言ってんの。男も女も根は対して変わらないよ。あ、じゃあアンタも懐浅いって事じゃないかい?」
「アニタ!・・よくない評判を聞くぞ。城の風潮を乱すような事は謹んでもらおうか」
「私は日々後悔の無いように過ごしてるだけ。こんな状況下だと、芯から穏やかになれるのは酒と人肌の温もりあってこそよ。それでなくともこの城には男前が多いから、目の保養にもなるったら」
バレリアさんが、ザバッと、今にも掴みかからんばかりの勢いでアニタさんの前に立った。なのに、アニタさんは素知らん顔でフフン、と笑った。バ、バレリアさん・・か、顔が怖い・・・。
一度だけ、酒場で言い合ってる彼女達に偶然居合わせた事があるけど・・・気の置けない仲、からなる、ものなんだよね、これは・・・。あの時は確か、レオナさんも苦笑しつつ見てたんだったか・・。
立ち上がったバレリアさんのお尻の影で、どうなる事かと伺っている私に、アニタさんがバシャッと飛沫をあげて、勢いバレリアさんを押しのけて、私の方に顔を出した。とても楽しそうに笑っている。
「アンタ、いい事教えてあげる。本当に両想いになれるかどうかは、一度寝てみれば分かる事よ」
「ア、アニタ!!無責任な事を言うな!!そしてお前と一緒にするな!!」
バレリアさんがくるりとアニタさんの方に向き直り、があっと噛みつくように言った。アニタさんも負けじと応戦の体勢を取った。・・・やっぱり顔が笑っている。
「お、お先に失礼します・・」
ぎゃあぎゃあと喚き始めた二人をその場に置いて、私は早々に退散する事にした。楽しそうだから、い、いいよね。
・・・・熱い。さすがに、のぼせたかもしれない。
フロ場から出た瞬間に、顔に当たる外の空気の心地良さに、思わず目を閉じた。
私はとにかく食事を、と、脱いだ服などの荷物を片付けてからレストランに向かう事にした。
渡り廊下から月が見えた。・・・・・今日は、とても中途半端に欠けていて、それが何処か、もの哀しさを誘った。
遅くまでシュウ達と共に、今後の戦の展開について話し合い、さすがに身も心もへとへとになったオレは、そのままビクトールと遅い晩飯を食い、酒場へと誘われたものの、そんな気分にもなれず断って、自室へと戻った。
乱暴にマントを外し、上着を脱いだ。シャツ一枚になり、ベッドに倒れ込む。
ついで、口から重いため息が漏れる。・・・・・・・とにかく、疲れた。
眠ろう、と、そのまま瞼を閉じた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・っきしょう」
・・・眠れない。神経が高ぶってるのか。
敗走に傷付き、命を失った兵は多い。オレの部隊にも。
必死になっていた。少しでも、多く、生きて帰る為に。
護る、というのは、言葉で示すのは簡単だが、実行に移すのは、その現状において時に、とても困難な事なのだ。
そして、それが、戦だ。
オデッサはよく、オレを『甘い』と言っていた。
『もっとしっかりしてよ』と。
今のオレは、どうなんだろう。少しは、あの頃に比べて、オレは・・・・・・・・
「愛している」、という言葉を伝える事に、躊躇した事は無かった。
彼女の全てが、オレの全てだった。
瞼を閉じたまま、思い出そうと試みる。オデッサの髪の感触。甘い息遣い。滑らかな肌の、その弾力。
。
「・・・・・・・・・くそぅ・・・・」
呻いても、時間の経過は容易に取り戻せない。
たぐり寄せようと必死になっても、その気持ちは真実確かだったと確信していてさえも。
・・・・・今、脳裏に浮かぶのは、
額の上に乗せていた腕をダランと力無く降ろし、はあ、と、喉に篭もる熱を吐いた。
オレは眠るのを諦めて、窓を開けた。・・・月が欠けている。
・・・・・・・・・・月を、見に、・・・でも、行くか。その場所に、より近いところに・・・・
オレはシャツ一枚の、その姿のまま部屋を出て、屋上に向かった。酒場に寄って酒を買ってくるかとも思ったが、飲めば更に目が冴えそうな、そんな気がして、とにかく胸一杯に外の空気を吸おう、と、階段を昇った。
屋上には誰も居ず、オレはその中心に立ち、空を見上げた。勢いよく息を吸い込み、空に向かって吐いた。
オデッサとも、よく月見酒をした。酔ってそのまま絡まるように抱き合って、眠りについた事も何度となくあった。
愛しかった温もり・・・。
先程、寝室に居た時には思い出せなかったオデッサの感触が、今度は鮮やかに蘇って来た。・・・月のお陰か。
「・・・・・本当に、愛していたんだ・・・・」
月に向かって呟くと、耳元で彼女の声が聞こえたような気がした。叱咤された気分だ。バカね、とか。
・・・・・久しぶりに、愛という言葉を口にした。思った以上に穏やかになれた自分が、少し滑稽でもあった。
ビクトールを抱きしめたが、どんな気持ちでそうしたのかは分からない。
この先それを彼女と語り合う事なんて絶対に無いだろうし、・・・オレが、彼女と、どうこうなるような事も、きっと、無い。
だが、・・・・・・認めるよ。オレは、彼女を意識している。手に入れたい、と、願っている。
多分、初めて見た時から、オレは。
オレがオデッサを忘れる事は、絶対にあり得ない。
だから、手の届く場所にいるを愛しく想い、求める事が、1人の男として間違っていなくとも、今のオレには出来ない。
オデッサの事を過去にする事が出来なくとも、いつか、・・・・・もっと自然に、こんなオレでも、・・・何を惑う事も無く、を1人の女性として、求める事が出来るようになれば・・・その時は。
生きよう。全ては何もかも、それからだ。
空を仰いで、再度、胸に勢いよく息を吸い込んだ。一度止めて、ゆっくりと、吐いた。
やっと、眠れそうだ。オレは階下への階段の方に向かい、一歩踏み出した。
・・・・人影。・・・・誰だ?
その人影は階段を登り切った所で急に立ち止まり、息を呑んだ。
オレの体の中で、ひどく熱く、何かが駈け昇った。
・・・・
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