That Day





菜子とが作って持たせてくれた弁当での食事を終えて、体のだるさから、自分が考えているよりも疲れている事に気付く。
無理もない。一日歩き続けたのは、本当に久しぶりなのだから。

なまってしまった自分の体に対し、これから数日間、否が応でも歩き続けなければならない現実は変わらないのだから、徐々に元に戻って行くだろうと、渇を入れる事よりもやんわりと受け止める方を選んだ。
焦っても始まらない。止まっていた時間は、再度、球をその中心として動き始めたのだ。

抜糸前、布団の中で焦れに焦れていた自分が、今になって少し滑稽に思えて、口の端で少し、笑った。


「・・なに?」
焚き火を挟んだ向かい側で、火の勢いを強くしようと薪の位置をいじっていたほたるが、の表情の変化に気付き、声を掛ける。
は、何、と問われた事に、素直に答えた。
「いや・・・、・・・傷のせいでじっとしていなければならなかった日々が、山中で野宿をしている今となってはなんだか懐かしいようだな、と・・な」
「・・・・・?」
が苦笑混じりに言った言葉の意味合いがはっきりとは掴めず、ほたるは少し首を傾げた。

・・・ほたるが、自分を気遣い、休憩を度々取ってくれたから、足のむくみもこの程度で済んでいるのかもしれないな。
は、自分の足のふくらはぎを軽く揉みながら、自分の体が、思うより無理が利かなくなっている事を改めて理解し、そして、強引だった自分を、変わらず何度も気遣ってくれたほたるに、きちんとお礼を言おう、と、顔を上げた。
「・・・ありがとう」
「え?」
「お前が何度も気遣ってくれたから、この程度の疲れで収まっているのだと思う。だから・・ありがとう」
「うん」
気恥ずかしさからか仄かに頬を赤く染め、がほたるにそう告げた。
を見つめたほたるの瞳が、細く細く、三日月を描く。


パチパチ・・と、薪の爆ぜる音が、二人の耳を支配する。
その夜は風も無く、空き地を囲う木々達も、ただそこに佇んで沈黙を守っている。
ほたるは無言で、手先だけがせわしなく、所在無さ気に焚き火をつつき、ただ過ぎていく時間を少し持て余しているかのようだった。
対して、はやはり、少々のぎこちなさを身に纏ったままで、ほたるとの間に焚き火を挟み、膝を抱えて、躍る炎をただ見つめていた。
沈黙は特に辛くない。
お互いがそう考えていた。
沈黙は辛くないが、見つめ合えないのが辛い。
視線を上げる事が出来ない。

は、今、ほたると向き合う事で、逃れられないだろうその時が訪れてしまうかもしれない事に、未だ少しの戸惑いを残していた。
また以前のように求められたら、私は応えてしまうのだろうか。
ほたるの全てを受け止める事で、自分の中に在るほたるへの気持ちが、はっきりと形を成して・・・そうして、最後に私が得るものは、どんな心なんだろう。
眼前を揺らぐ炎を虚ろに見つめ、気持ちは過去と未来を忙しく彷徨った。

そして、ほたるは          




が寝室を別にしてからというもの、ほたるにとって今日まで、ひたすらに我慢の日々だった。

が自分に対し、色々考えたり悩んだりしているのは、今までのの言葉や行動で、ちゃんと理解してはいた。だが、自分が抱きしめるたび、口付けるたび、自分に対しが、文句を言いつつも従順に応えてくれる事が、ただでさえそういう事に囚われないほたるにとって、その事柄を深く考えさせずにいる要因となっていた。
にとってとても根の深い問題なのだと、明確に意識さぜるを得なくなったのは、寝室を別にされたという現実からだった。
抜糸後、今宵やっととひとつになれると喜び、浮かれていた自分に、頭から、ほたるの大嫌いな水を勢いよく浴びせられた様な感覚。
元々がそういった事柄を真剣に考えた事などなく、どちらかといえばしたい時にしたい事をする、そうやって女性と交わって来た。否定されたとしても、それはそれ。ほたるは否定されるという事に対し、何の恐れも抱いてはいなかった。
ほたるは、女性に対し、自分という人間を自身からの言葉で着飾らせるという事を一切しない。疑問を抱き、迷うという行為に縁がない。
何事も繕わず、そのままあるがままの自分。
それ故に、暴かれるものが何もないのだ。
今までは。

に対しては、何もかもが違った。
一人の女性に対し、その対象に向ける、思い通りにならない衝動も、込み上げてくる愛しさも、渇望するという感情の全てが           
ほたるの中に、例えようの無い苛立ちと、焦りと、この上ない幸福感を生み出していた。

手放したくない。
離さない。
側にいて欲しい。

初めて、縋るように募らせる想いを、自分の中にひとつの言葉で綴った夜。

が、好きだ。

二谷の診療所で、と寝食を共にし始めて以来、初めての、独り寝の布団の中で。
ほたるは、考えた。滑稽なほど、一人の人を、想った。

そして。
自分と寝室を別にしてまで、今、自分と体を重ねる事に抵抗を感じているのなら、から求めてくれるようになるその時まで、待とうと決めた。
触れたくても、我慢した。
と口付けたくてたまらなくて、夢に見るほどに求めても、頑なに自分を制御した。



今日、旅立ちの朝を迎えて。
二人きりになった途端、に対し溢れ出しそうになる情欲の固まりに圧されて、ほたるはただ堪える事に限界を感じ始めていた。
の身に纏う気配が、ここに至りなんともいえぬアンバランスさを伴って、ほたるに迫っていた。
は、自分を求めてくれている。それを認める事に否か応かを出しあぐねている。その感情の動きは今までと同じでも、身に纏う情感がひとつだけ違うのだ。
成熟した女性の持つ、艶めかしさ。事此処に至り、纏う色の気配が格段に増していた。
それが示すものは、の中ではっきりと形を成した、自分に対しての、ひとつの覚悟なのでは無いのだろうか。


・・・・・視線を合わせてしまったら、もう求めずにはいられない。
きっと、問うてしまう。         もう、いいか、と。
その時まで待つ、と、今までなんとか自分を抑えてきたのに。




パチッ!
炙られた薪が一際激しく爆ぜる音と共に、細めの枝で焚き火をつついていたほたるの眉間に皺が寄る。
枝を火の中に放ると、今まで枝を持っていた方の手の甲を口元に持っていき、軽く舐めた。
「・・・・どうした?火の粉が飛んだのか?」
ほたるの動きが目の端に入り、顔を上げてそう問うたに、ほたるが、うん、と、小さく答えた。
が、何を思う事も無く自然に立ち上がり、ほたるの傍らに歩み寄り、腰を屈めてその手の甲を眺めた。
ほたるの目の前で前屈みになったせいで、着物の襟の合わせ目から、の胸の谷間がほたるの眼前を唐突に支配する。自然、視線が引き寄せられる。
・・・・のバカ。
ほたるは、の無防備さを心の中で小さく罵った。
もう限界・・・かも。

の視線の先で、小さな赤い点がポツン、と、撥ねた火の粉が舞い降りた場所を、ほたるの手の甲に示している。
は少し微笑んで、大した事は無いな、と言ってから、顔を上げた。
          ほたるが、真っ直ぐにの瞳を見つめている。
鼓動がの胸の奥を激しく打ちつけた。


ほたるの瞳の中で、踊る炎と共に映るのは、無様に狼狽える自分。
今?
もう、?
そのまま身動きが出来ず、沈黙する。

私は、・・・・・・・・
『ほたる』          を、




「・・・まだ、答えが出ないの?」

一拍の間を置いて、ほたるが無表情のままでに向かい、呟いた。
問う、という響きでは無く、何処にともなく苦しさを吐き出す           例えるならそれはもう、ほたるの胸の内の独り言に近かった。
ほたるの呟きに対し、上手く応えが返せないでいるから視線をつ、と逸らすと、ほたるは徐に立ち上がり、に背を向けて、自分達を囲う木々に向かい歩き始めた。
が慌ててその背に声を掛けた。
「?・・何処へ行く?」
と、問われた事にくるりと振り向き、表情こそは先程と同じ平坦なものだが、声の響きには完全に苛立ちを露わにし、ほたるが答えた。
「・・・・あっちで寝る」
「あっち?どういう・・・・藪の中で寝るのか?」
「ここで寝たくない」
「・・・・!」
今度こそはっきりと、ほたるの言動の意図は、に明確に伝わった。
ほたるは、自分とは寝たくない、と、そう言っているのだ。いきなりの拒絶に、が目を見開き、その動揺を顔元に露わにし、ほたるを見つめた。
ほたるは、そう深い意味合いでもってを責めた訳ではない。ただもう本当に、限界だったのだ。がただ自分の傍らに佇んでいるだけで、自分の五感を悉く刺激する。声も、匂いも、指の微かな動きさえ、ほたるの理性を破壊しようと勢いよく迫ってくる。
隣で寝る事など、絶対に出来ない。
が自分の今の言動で、もしかしたらまた悩むのかもしれないと、少し思った。でも、答えを出すのはで、自分はただ待つだけ。なら、今の自分はにとってただ危険なだけの存在だ。
ずっとじゃない。今だけ。
ほたるは自分にそう言い聞かせて、再度に背を向けて、藪に分け入ろうとした。

「私が、体を預ければそれでいいのか」

「・・・・・・・・え?」
が徐に、低い声の響きで、ほたるにそう問い掛けた。呟きはほたるの背に当たり、足元に落ちる。
ほたるが言葉の内容を不審に思い振り向くと、は拳をぎゅっと握りしめ、自分の足元を睨み付けている。
       全て、それで、          私も、お前も、・・・・私の抱える、何もかもも、安息の収束を迎えると。なら、いっそ、もう、強引に奪ってくれれば良かったのだ!答えなど・・!・・・出る筈など、ないのに・・」

『ほたる』 は、『ケイコク』 で、

『ほたるも変わりましたよ・・とてもね・・』

・・・・・・私も、変わった。
『ケイコク』 からほたるに、
命を賭して仇討ちをと血を吐くような想いで誓っていた相手の事を、



求めている。あんなに、憎んだのに。
憎くて、憎くて、          ・・・



緊張に緊張を上乗せされたようなギリギリの状態の時に、いきなりほたるから拒絶を受けた事で、の心にあった不安や惑いが、途端勢いよく溢れ出してしまった。いきなりの事に驚くほたるに対し、そのまま憤りをぶつけてしまう。
「どんなに考えても、過去は変わらない・・・あの時刻み込まれた念は、そのまま依然私の中にある。拭えないんだ。どうしたって、お前は支配する側で、私は・・・、・・・私は、『ほたる』の事を・・・」
喚いて、気付いた。
私は、もう、本当に、・・本当に、『ほたる』の事が・・・・


そこからの呟きが何故か喉の奥に消えてしまったに対して、今まで、を想い、待って待って、待ち続けて、我慢し続けるという、慣れない行為を強いられていたほたるの中で張り詰めていた糸が、激しく惑うを目にしてとうとう、プツン、と切れた。
足元を見つめたまま微動だにしないに向かい、唸るように問い掛けた。
「・・・・・・・・、オレをナメてない?そんなにオレ、考え無しに見える?」
その場に仁王立ちになり、眉を顰めて目を細くする。

は自分の発する想いに心の中を激しく揺さぶられてしまい、今し方ほたるに問われた内容が頭で上手く理解出来ず、ゆっくりと顔を上げて問う様にそちらを見た。が、自分に真っ直ぐ向けられているほたるの険しい表情に、少し怯んで、身を強張らせた。
剣呑な光がほたるの目の奥に揺らいだ。怒っている・・・・。
「確かに、オレは傷治ったらとしたいって言ったけど、餓鬼じゃないんだから、がその気になってくれるまで、がっつかずにちゃんと待つくらい出来るよ」
声の響きはそう激しくはない。いつもの抑揚の無い話し方だ。だが、言葉の端々はようく研がれた刃物のように鋭い光を放ち、自分の心を奥を狙いすましているようにには感じた。
剥き出しになった、ほたるの、への恋情          
「オレはを責めて無いし、責めるつもりもないよ。が今のオレに対して、昔のオレを重ねようとする事に後ろめたい気持ちがあるからそう言われてる気になるだけ。オレはが大事で、が欲しくて、その気持ちは全然変わってない。だけど、それはオレの気持ちで、の気持ちじゃない。だから、オレはあっちで寝る。分かった?」
考えている事をそのまま言葉にして聞かせているのだ、と言わんばかりの平静な風情で、を見つめる。
言葉の内容をそのまま飲み込む事が、きっとほたるの気持ちそのままを素直に受け取る事になるのだろう。
だが今のにはそれは、ただただもう、苦い固まりでしかなかった。

先程までほたるの視線の強さに射られるようにその場に釘付けになっていたの体が、ふいに少し後ろへと揺れた。
後ずさるかに見えたの体は、それでもその場に留まろうとする想いと戦っているかのように、小さく震えた。
ほたるは、視線をまた足元に落とし、苦しげに眉を寄せたの表情を見て、気持ちが内に篭もった事に気付いた。自分の言葉が真っ直ぐに届かない事にどうにも切なさが込み上げて、喉の奥に何かを堪えるように少し息を呑み、そして沈黙した。


薪が炎に炙られ、炭に変化し、カラリと音を立てて数本、その中心に崩れ落ちた。
の背後に、少しだけ、衝撃で火の粉が舞った。
ほたるは、ピクリとも身動きせず、寄る辺無く虚ろに足元を見つめるを、
・・・ただ、抱きしめたいと思った。




「好きなの?」

俯いたままのが、きちんと自分に向き合えるように。
少し強めの口調で、呼び掛ける。
オレを、見て。

「・・・・・」
はゆっくりと、顔をこちらに向け、ほたると目を見交わした。


         好きなの?嫌いなの?オレの事」

「・・・え?」

がオレの方に踏み出すか踏み出さないかに必要な事は、何をどんなに考えたってきっとそれだけだよ。それ以外に大事な事なんて無い」


いつもの様に抑揚の無い声色。
だが、その奥に潜む恋情は、ただただ、一人の女性へと向かい、日々激しさを増していく。
熱さに焦れて、それでもとその人にひとつの問いを投げかける。
オレを、見て。






「オヤスミ」
平坦な口調でに就寝の挨拶を告げると、ほたるはくるりと背を向けて、今度こそ本当に、藪の奥へと分け入って、その奥へと行ってしまった。
は、細くなる背中を反射的に呼び止めようとして、やめた。
ゆっくりと、ひどく緩慢な動きで藪に背を向け、ほたるが座っていた場所に座り込む。
膝を抱えて、炎を見つめた。


考えなければいけない。
だけど、何かを考えようにも頭の中が真っ白になって、何をどう考えればいいのかも分からない。
背を向けたほたるに、私は何を言い募ろうとしたのだろう。





好き。


・・・嫌い。



踏み出すのに必要な事は、それだけだと、ほたるが言った。
ほたるの気持ちや、首領の気持ちや、谷のみんなの、気持ちは・・・・・、
それに囚われる自分を、全て、今、捨てて。
残るのは。


・・・・・・・・・胸が苦しい。
喉の奥に、熱い何かが押し寄せて、を急き立てた。
『答え』とは、なんの為に必要だったのか            






苦しさを紛らわす為に、溜まった息を吐く。
ゆっくりと立ち上がり、ほたるが分け入った藪の方を向く。

歩く為に、足を前に出す。

ひとつの躊躇も無く、一歩を踏み出した。そのまま、ほたるが居るであろう場所まできっと、私は踏みとどまらない。










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